メルヴMervは紀元前6世紀からアケメネス朝ペルシャのオアシス都市の一つとして繁栄を始めたシルクロードの町です。古い町が放棄されると、その上にではなく、隣接して新しい町が築かれたため、遺跡のエリア内に異なる時代に作られた5つのカラがあります。そのためメルヴ遺跡の敷地全体は非常に広大で、またカラ同士が連なっていたりしてどれがどれかやや紛らわしい。トルクメニスタン政府観光局のウェブサイトにあるこちらの地図が分かりやすいです。
https://turkmenistan-japan.com/media/merv_map.pdf
(リンクからだと大きな画像で開けます)
一つ目は大キズ・カラGreat Kiz Kala。11~12世紀、セルジューク朝時代に建設された小スルタン・カラの手前にあります。
ここは城塞内の屋内スペースが公開されています。
ガイドさんによると、外壁が柱を縦に並べたような模様になっているのは、この形状により少しでも影ができることで建物が熱を持つのを緩和する役割があったからとのこと。写真は背面から。
そのすぐ奥にあるのが小キズ・カラ Small Kiz Kala。
そのさらに背後が11~12世紀の小スルタン・カラですが、ここまでで僕たちは車に乗って次のカラへ向かいました。写真はその路肩にて。ロバが引く荷車にたくさんの人が乗っています。タクシー代わりのよう。
アスハブ廟 Askhab’s complex。7世紀に生きたイスラム教の聖職者2人が埋葬されています。その背後にそびえるイーワーンは15世紀に作られたもの。
次はまた車で移動して、写真右奥のモスクへ。これは失念しました…あずき色のジグリに惹かれてしまいました。アシガバードではないので、こんな色の古い自動車もありです。
次はエルク・カラ Erk Kala。B.C.6~5世紀の遺構です。城塞跡の上から。高い外周が円形に取り囲み、鉢状になっています。
エルク・カラを含む形で、その向こうにさらに広大なギャウル・カラ Gyaur Kalaが続いています。ギャウル・カラはB.C.3~A.D.3世紀の遺構。メルヴ遺跡全体を一望できますし、ぐるりと囲む城壁の上をさらに向こうまで歩いていけます。
この高さ、下から見るととても登れるように見えないのですが、背後が斜面になっていて、そこから写真の人々の立っているところまで到達できます。中学生くらいの子供たちで、すれ違う時に、外国人である僕たちに一緒に写真を撮っていいかと言って、全員のスマホで撮影会になりました。ここもだいぶ外国人が珍しいようです。
つい楽しくなり、友人と4分の1周ほど歩いた時点で、ガイドさんから次がつかえているからと注意が。切り上げて再び車に乗ります。
シャフリアル・アルクShahriar Ark。11~12世紀に建造。
セルジューク朝のスルタン・サンジャルの時代、メルヴは首都となりました。ここは学芸の中心で、図書館が8つもあったとか。
最後がスルタン・サンジャル廟。先ほどいた場所から再び車で移動しました。スルタン・カラの中央部に位置しています。
しかしここでハプニングあり。霊廟の手前にキオスクがあり、じーさんが、「入場は無料だが撮影は有料!メルヴ遺跡の敷地内でこれまで撮影をしたなら50マナトだ!」と突然言ってきました。しかしそんなことは観光会社から聞いていませんでしたし、ガイドさんもこの場で初めて知ったとのこと。そんな後出しじゃんけんのようなことを言われても困る。僕も友人も、これが自腹ならなぜ先に言わなかったんだ、支払った料金に含まれているのではないか、予め聞いていないと主張。50マナトは僕たちの両替した闇レートなら3ドル強ですが、公定レートなら約15ドルと、商用の撮影でもないのに高すぎますし、しかもここは野外なので誰だって見えるものをあらゆる場所から撮影できます。加えて、僕も同僚もこの後自腹で払うことが確定している昼食代を出したら現地通貨を使い切りそうだったので、後に引くわけにはいかぬ。同僚がかなり厳しい口調で拒否し、ガイドさんも上司に確認することができなかったため、最終的にここはガイドさんが支払いました。どうか会社に経費として精算してもらってくれ。
備忘録を兼ねて、どれが何なのかを書き留めましたが、実はほとんどがガイドによる説明ではなく、後日自分で調べて確認したものです。ガイドからは、カラの名前と時代、それに外壁の形状くらいしか説明がなかったのですよ。ギャウル・カラには仏舎利跡もあるそうで、それは見てみたかった。当地へ行く諸兄姉は、せめて冒頭のメルヴ遺跡の地図だけでも持っていくことをお勧めします。
0 件のコメント:
コメントを投稿