キエフのキルィリフКирилівська教会(キリロフКириловская教会)を訪問してきました。この教会については不覚にも知らなかったのですが、昨日知り合いのウクライナ人から聞き、ここは見るべきとの勧めを受けまして、行ってきました。
最寄りはメトロ・ドロゴジチДологожичіですが、ペトリウカПетрівкаからもバスにて一本で到達可能。
教会は丘の上ですので、バス停で降りてから急階段を上ります。
一応、かつてここはキエフ郊外のドロゴジチ村だったようです。木の砦で囲われていたのかもしれません。
階段を上る手前にウクライナ語と英語で説明書きがあります。
かつての外観(左)と現在の外観(右)。元々、一二世紀の建設時にはビザンツ様式の聖堂だったのですが、一七世紀にウクライナ・バロック様式に外観が変えられてしまいました。塔が増やされ、ファサードも新しくされてしまいました。
しかし、それでもこの教会を訪れるべき理由があるのは、その内部のフレスコなのです。一二世紀のフレスコ画がかなり広い範囲に残っているからなのです。
但し、内部は絶対撮影禁止場所(聖ソフィヤと同じ)で、これの直接的な紹介はできません。
せめて、外観だけでも。アプシダ側から。かつての姿を想像するには、真ん中のドーム以外を除去し、またドームの上をビザンツ型の丸屋根に置き換えればいいはず。
南側の壁。一部、かつての様子が分かるように漆喰がはがされています。
西の入り口。完全に後代のタイプです。
こちらは北側。
入場料は30Gで、カッサでは案内用の書籍や写真集が売られていました。写真撮影が禁止だったので、代わりにWikipediaのフリー素材から転用するのですが(以下3枚)、いや、分かりました。なぜ撮影禁止か。明らかに写真のものよりも現在の方が色落ちしています。一時の高松塚古墳の壁画のよう・・・。
マリアの足下の部分より下が一二世紀のフレスコ。
パウロだったか。上半身が一二世紀の部分。
こうして見てみると、Wikiのものの方が現在のものよりも色がかなり残っていますね。現在はかなり全体的に赤茶けていました。修復作業はあまり進んでいないようでしたから、このままだと大変かも。橿原考古学研究所の出番ですよ!
因みにこの教会はチェルニゴフ系でキエフ大公になったフセヴォロド・オリゴヴィチが一二世紀前半に建てたもので、その後は一族の墓所となったようです(「因みに」で話すことではないですが)。
最寄りはメトロ・ドロゴジチДологожичіですが、ペトリウカПетрівкаからもバスにて一本で到達可能。
教会は丘の上ですので、バス停で降りてから急階段を上ります。
一応、かつてここはキエフ郊外のドロゴジチ村だったようです。木の砦で囲われていたのかもしれません。
階段を上る手前にウクライナ語と英語で説明書きがあります。
かつての外観(左)と現在の外観(右)。元々、一二世紀の建設時にはビザンツ様式の聖堂だったのですが、一七世紀にウクライナ・バロック様式に外観が変えられてしまいました。塔が増やされ、ファサードも新しくされてしまいました。
しかし、それでもこの教会を訪れるべき理由があるのは、その内部のフレスコなのです。一二世紀のフレスコ画がかなり広い範囲に残っているからなのです。
但し、内部は絶対撮影禁止場所(聖ソフィヤと同じ)で、これの直接的な紹介はできません。
せめて、外観だけでも。アプシダ側から。かつての姿を想像するには、真ん中のドーム以外を除去し、またドームの上をビザンツ型の丸屋根に置き換えればいいはず。
南側の壁。一部、かつての様子が分かるように漆喰がはがされています。
西の入り口。完全に後代のタイプです。
こちらは北側。
入場料は30Gで、カッサでは案内用の書籍や写真集が売られていました。写真撮影が禁止だったので、代わりにWikipediaのフリー素材から転用するのですが(以下3枚)、いや、分かりました。なぜ撮影禁止か。明らかに写真のものよりも現在の方が色落ちしています。一時の高松塚古墳の壁画のよう・・・。
マリアの足下の部分より下が一二世紀のフレスコ。
パウロだったか。上半身が一二世紀の部分。
こうして見てみると、Wikiのものの方が現在のものよりも色がかなり残っていますね。現在はかなり全体的に赤茶けていました。修復作業はあまり進んでいないようでしたから、このままだと大変かも。橿原考古学研究所の出番ですよ!
因みにこの教会はチェルニゴフ系でキエフ大公になったフセヴォロド・オリゴヴィチが一二世紀前半に建てたもので、その後は一族の墓所となったようです(「因みに」で話すことではないですが)。
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