かつて、フョードル・シェフテリФедор Осипович Шехтельという建築家がいました。19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したアール・ヌーボーの建築家です。特にモスクワには彼の建築が多く、100軒以上の建物があります。
海の波をかたどった階段の手すりとクラゲの形の照明が特徴の階段がよく知られていますね。
シェフテリの建築で最も有名なのはこの手すり&照明を有するゴーリキーの家博物館でしょう。元々はリャブシンスキーという軽工業の工場経営者のために作ったアール・ヌーボーの建築でしたが、ロシア革命後ソ連政権に接収され、最後は作家のゴーリキーの住居となりました。
シェフテリの作った建築物は外務省の迎賓館や外国大使館として使われていて、内部は非公開のものも。そんな中、シェフテリ本人が自分とその家族が居住するために建てた邸宅が時々公開されていることが分かり、行ってみました。
今回見学できた邸宅。こちらは現在、人道政治学センター「ストラテギヤ」Гуманитарный и политологический центр Стратегияが入居。所在地はボリシャヤ・サドヴァヤ通り4c1 Большая Садовая ул., 4, стр. 1 /Bol'shaya Sadovaya 4c1です。
早速向かってみます。
この邸宅は自分と家族が住むために自分で設計した建物なので、自分の趣味や生活様式を反映した、建築家が実現したかったものが最も如実に表現されているはず。こちらの建物については写真&シェフテリ自身の説明を中心とします。
内部のステンドグラス。
いまでこそ内装は美しく、ステンドグラスも嵌っていますが、90年代にセンターが入居した時点では内部は壊れ、ごみで溢れていたそうです。できるだけ元の状態に戻したということですが、内装でオリジナルのものは入り口の木製の重い扉しか残っていないとのことでした。
シェフテリ自身はドイツからロシア帝国へ移住した第3世代です。祖父はエカテリーナ2世がヨーロッパに対してロシアへの移住を推進する政策をとった時期にバイエルンからロシア帝国にやってきて、サラトフのドイツ人コロニーに住み始めた人で、その息子、シェフテリの父親はサンクトペテルブルグで学業を修め、商業的にも成功。同じくドイツ系女性と結婚し、ここでシェフテリも生まれました。一方、サラトフに残った伯父が事業に失敗し、多くの負債を抱えた彼はシェフテリの父を巻き込んで復活を計ります。シェフテリの父はペテルブルグからサラトフへ一家で移住し、傾いていた家業を立て直しました。事業が回復してきたところで、経営していた劇場が火事になり、消火活動に参加した父はその後引いた風邪が元で亡くなります。その数か月後、一連の事件の張本人の伯父自身も亡くなり、シェフテリ一家と伯父の妻は大黒柱を失ってしまいました。
当時はこのような状況になると、友人や知り合いの富裕層が支援してくれるものだったそうですが、シェフテリの母の気難しく高慢で周囲と馴染もうとしない性格のせいで、サラトフという地方都市では「あの家族だけは助けたくない」と思われていたようです。
考えてみれば、首都ペテルブルグで裕福な夫と都会暮らしを満喫していたのに、夫の親戚のせいで突然地方都市に移住せざるを得なくなったら、面白くないでしょうねえ。しかも、仕方なくついていったら夫まで亡くなってしまったわけですよ。
(なぞの巨大なしつらえもの)
そんな八方ふさがりな状況のシェフテリ家に、一人だけ支援の手を差し伸べた人物がいました。伯父の娘と結婚したジェギンです。彼はモスクワに住む友人のパヴェル・トレチャコフのところでシェフテリの母を家政婦として雇ってもらいました。トレチャコフと言えば、モスクワのトレチャコフ美術館の創設者の一人です。
(おしゃれな応接セット)
父を亡くし、母がモスクワへ去ったシェフテリは、サラトフのギムナジウムに入学しますが、成績はオール3というタイプだったそうです。しかし美術の成績だけはよかったとのこと。しかしある年、大量の授業を欠席したために退学。ジェギンは彼をカトリック神学校に入学させ、シェフテリはここを卒業後、母のいるモスクワへ行きました。そして母の働くトレチャコフの家で当時の文化人たちと知り合います。彼がここで知り合った芸術家の中には若き日の画家のイサーク・レヴィタンやニコライ・チェーホフがいました。ニコライは早逝しますが、彼を通じて兄弟である作家のアントン・チェーホフとも知り合い、生涯交流の続く仲となったそうです。
(廊下部分もおしゃれ。丸みのある階段の入り口部分、手すり、向こうが透ける扉。照明もいい味。)
シェフテリはモスクワで美術学校に入学しましたが、学位を取得することはできませんでした。彼はすでに活躍していた高名な建築家の工房で働き、自身の設計する建築物が街中に建てられるようになっていきます。実績を重ねるにつれ、学位がなくても実力が評価されていきました。その間の10年ほど、彼は建築のほか、本の挿絵や劇場のポスター、ボリショイ劇場の舞台美術、レストランのメニュー表など、さまざまなデザインを手がけています。
このツアー内で紹介された資料の中に、アントン・チェーホフが金に困窮したときにシェフテリに送った手紙がありました。「君が金を貸してくれなかったら、僕は死んでしまう」と。しかも首を吊った針金人間を描いて、横に「これが僕だ。」と書いてあります。うーん、チェーホフはデビュー当初ユーモア作品を発表していただけあって、金を無心するにもセンスが光りますなあ。
(絶妙な曲線美が至る所に。)
モスクワを中心に多数の建築物を残し売れっ子建築家となったシェフテリですが、革命後、ソ連時代になると、ソ連政権が個人による建築を禁じたため、従来の主な依頼主だった個人客からの注文がなくなります。ソ連時代になると建築を含む芸術の主流派はロシア構成主義やロシア・アヴァンギャルド、社会主義リアリズムと変遷していき、シェフテリが得意としていたアール・ヌーボーは見向きもされなくなります。1920年代はわずかしか作品を残すことができず、最後は薬を買うにも足りないほどの年金をもらう生活だったそうです。ソ連時代、建築の教科書にロシアのアール・ヌーボー様式は記載されませんでした。現代ですら、大量の博物館を抱える国であるにも関わらず、ロシアにシェフテリの博物館や記念碑はないそうです。
屋上からはボリシャヤ・サドヴァヤ通りが一望できました。
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