昨晩急に思い立ってペレヤスラウ・フメリヌィツィキーПереяслав-Хмельницький(ペレヤスラヴリ・フメリニツキーПереяславль-Хмельницкий)に行ってきました。
この町も古都で、チェルニヒウЧернигів(当時はチェルニゴフ)、キエフКиївと並び古ルーシの三大都市だったので、一度訪問したいと思っていました。
飛行機も鉄道もこの町には通じていないので、行き方はバスのみです。とりあえずヤンデクスで調べてみると、朝だけでも本数はかなりあります。
ところが、念のために帰りの便を調べてみると、なんと16時45分発(ペレヤスラウ発)の一本だけなので。「行きはよいよい、帰りは怖い」なんて歌を思い出します。席が埋まって乗れなかったらどうしよう。そこで早く出発して、向こうに着いたらすぐに復路のチケットを買う、という作戦を立てて出発しました。
時刻表にある「ダルヌィツァДарниця」のアフトヴァグザルに向かいます。地図を見るとメトロ「ダルヌィツァ」ではなく、隣の「チェルニヒウシカЧернигівська」駅に近いので要注意です。
ところが、駅を降りてバス乗り場に向かって歩いて行くと、驚きでした。駅を降りてすぐの通り沿いに、要はヤンデクスに乗っていない類いの(しかし怪しいわけではない)バスが数台止まっているのです。
その中に「ペレヤスラウ・フメリヌィツィキー」行きを見つけ、ドライバーと思しきおっちゃんに尋ねると料金は35Gで30分以内に発車するとのこと。乗ってみると既に車内はほぼ満席でした。他の方面行きのバスも出ていました。写真は車内で撮ったもの。前方がメトロの駅です。
それから1時間半程度でしょうか、ペレヤスラウのアフトスタンツィヤに到着です。
プラットホームはこちら側(表側)と裏側にもあります。あとでわかったのですが、こちらはキエフ行きのホームでした。
こちらは裏側。コストロマー以上ののどかさです。野良犬の昼寝をよく見かけました。
さて、早速帰りのチケットを買うためにアフトスタンツィヤに入りますが、・・・まあ見ての通り、実はキエフに帰る便など、幾らでもあったのです。ロストフのバスの時もそうでしたが、ヤンデクスは全てのバスを網羅しきっているわけではないのです。ネットに慣れていると、そういうあり得そうなことを忘れてしまい、「ネットにない=本当に存在しない」と考えてしまうのですが、まあ考えてみれば、キエフに行く便が一日一本しかないなんてヘンですよねえ。
そういうわけで時刻表を載せておきます。
都市間バスや近郊バスもまあまああります。
カニフ(カネフ)行きもあります。
要は、いろんな方向に出ています、ということです。
ただ、それにしてもチケットは買っておこう、と思ったのですが、こちらも衝撃(大げさかな)の事実。
「チケットはドライバーから買ってね」(うちでは売ってないよ)。アフトスタンツィヤの役割を放棄しているような気もします。
さて、以上の状況から予想できることは、ヤンデクスには出てこないのですが、やはりこの町にも普通のバスが走っているだろいう、ということです。そして予想通りでした。
アフトスタンツィヤの、通りを挟んだ向かいに今回の目的地に行くバスのバス停があるではないですか。ただ、実は15分くらい待っても来なかったもので、歩いてしまいました。
途中ですれ違った反対方向行きの2番バス。これは大きいタイプ。小さいのは普通のマルシルートカタイプです。結局乗らなかったのですが、窓には4Gと書いてあるのを見ました。
歩いて行くと突き当たるのがボリス・グレプ広場。ロシア革命前まではボリス・グレプ教会があったそうですが、革命で破壊され、代わりに立ったのがレーニン像。しかしそれも台座を残して壊されたとのこと(脇に写っているおばあさんの話)。
ロシアでもウクライナでもはやりのフィットネスクラブ。新しい建物でした。
アリタ川を越えて、約1000年前に砦(ジェチネツ)だった部分に入ります。因みに川は藻だらけでした。
川を渡ると古代の公の像。ウラジーミル・グレボヴィチ公だそうです。名前を聞いてもぴんとこない。どんな人だったか思い出せぬ。
川を渡ってから、どちらかというと右に向かっていきます。このあたりがかつて砦があった地区なのです。当時はペレヤスラヴリ・ルースキーと呼ばれていました(写真の聖堂は後代のものです)。
そして聖堂脇を左に進んでいくとまずはこの公園のような空間。そばに二つの石碑がたっています(これでわかる人は通ですよ)。
もう一つあります。
そうなのです。ここはかつての砦の跡でもあるのですが、それが1239年にモンゴル帝国に滅ぼされた後、まだ多少集落的機能が残っていたのでしょう。ここでウクライナ史上の英雄ボフダン・フメルヌィツィキーが1654年にカザーク(コサック)のラーダ(会議)を開き、ロシアのツァーリ、アレクセイ帝と対ポーランド戦争で同盟を結ぶのです。このことの歴史的評価は非常に難しく、ウクライナ人の中には彼を裏切り者とみる者もいます。
ただ、それがこんな空き地で決まったとは思わなかった・・・。
それはさておき、もう一つのお宝がこの先にあるので、そちらに向かいます。どんどん進んでいきます。見えてきました。
当時、ペレヤスラヴリ・ルースキーと呼ばれていたこの町の、その中心にあたる砦の、更に一番南に当たる部分がまさに砦のコアの部分だったわけです。モンゴルにより破壊され、当時のものは遺構しか残っていませんが、こちらのミハイル教会がかつての主教館があった場所です。
周りに遺構が残っています。
説明書きによると、諸公や主教たちの墓所だったようです。
元は一回り大きかったようです。
そして、教会自体は普通の建物ですが、屋根の上にかつてのものをそのまま復元したものを載せてあります。
これ、下からだと見えないのですよ。距離を取らないと。
修道院の裏は砦を支えるもう一つの川トルビジ(トルベジ)がある。こちらは藻がたまっているなんてことはない。
ミハイル教会の中にはの石碑についてもう一言。これ、原初年代記の編集を行ったシリヴェストルが1123年までここにいたとの碑文。個人的にはちょっと感銘を受けました。
その後もいろいろ廻ったのですが、これ以上は秘密です。ただ、日曜に行って正解でした。
アフトスタンツィヤに戻り、目の前に止まっていたバスに空き席があったので、行きと同じく35Gでキエフに帰還しました。メトロのボルィスピリ駅を経由したのでそちらで下車しました。(2016.6.5)
この町も古都で、チェルニヒウЧернигів(当時はチェルニゴフ)、キエフКиївと並び古ルーシの三大都市だったので、一度訪問したいと思っていました。
飛行機も鉄道もこの町には通じていないので、行き方はバスのみです。とりあえずヤンデクスで調べてみると、朝だけでも本数はかなりあります。
ところが、念のために帰りの便を調べてみると、なんと16時45分発(ペレヤスラウ発)の一本だけなので。「行きはよいよい、帰りは怖い」なんて歌を思い出します。席が埋まって乗れなかったらどうしよう。そこで早く出発して、向こうに着いたらすぐに復路のチケットを買う、という作戦を立てて出発しました。
時刻表にある「ダルヌィツァДарниця」のアフトヴァグザルに向かいます。地図を見るとメトロ「ダルヌィツァ」ではなく、隣の「チェルニヒウシカЧернигівська」駅に近いので要注意です。
ところが、駅を降りてバス乗り場に向かって歩いて行くと、驚きでした。駅を降りてすぐの通り沿いに、要はヤンデクスに乗っていない類いの(しかし怪しいわけではない)バスが数台止まっているのです。
その中に「ペレヤスラウ・フメリヌィツィキー」行きを見つけ、ドライバーと思しきおっちゃんに尋ねると料金は35Gで30分以内に発車するとのこと。乗ってみると既に車内はほぼ満席でした。他の方面行きのバスも出ていました。写真は車内で撮ったもの。前方がメトロの駅です。
それから1時間半程度でしょうか、ペレヤスラウのアフトスタンツィヤに到着です。
プラットホームはこちら側(表側)と裏側にもあります。あとでわかったのですが、こちらはキエフ行きのホームでした。
こちらは裏側。コストロマー以上ののどかさです。野良犬の昼寝をよく見かけました。
さて、早速帰りのチケットを買うためにアフトスタンツィヤに入りますが、・・・まあ見ての通り、実はキエフに帰る便など、幾らでもあったのです。ロストフのバスの時もそうでしたが、ヤンデクスは全てのバスを網羅しきっているわけではないのです。ネットに慣れていると、そういうあり得そうなことを忘れてしまい、「ネットにない=本当に存在しない」と考えてしまうのですが、まあ考えてみれば、キエフに行く便が一日一本しかないなんてヘンですよねえ。
そういうわけで時刻表を載せておきます。
都市間バスや近郊バスもまあまああります。
カニフ(カネフ)行きもあります。
要は、いろんな方向に出ています、ということです。
ただ、それにしてもチケットは買っておこう、と思ったのですが、こちらも衝撃(大げさかな)の事実。
「チケットはドライバーから買ってね」(うちでは売ってないよ)。アフトスタンツィヤの役割を放棄しているような気もします。
さて、以上の状況から予想できることは、ヤンデクスには出てこないのですが、やはりこの町にも普通のバスが走っているだろいう、ということです。そして予想通りでした。
アフトスタンツィヤの、通りを挟んだ向かいに今回の目的地に行くバスのバス停があるではないですか。ただ、実は15分くらい待っても来なかったもので、歩いてしまいました。
途中ですれ違った反対方向行きの2番バス。これは大きいタイプ。小さいのは普通のマルシルートカタイプです。結局乗らなかったのですが、窓には4Gと書いてあるのを見ました。
歩いて行くと突き当たるのがボリス・グレプ広場。ロシア革命前まではボリス・グレプ教会があったそうですが、革命で破壊され、代わりに立ったのがレーニン像。しかしそれも台座を残して壊されたとのこと(脇に写っているおばあさんの話)。
ロシアでもウクライナでもはやりのフィットネスクラブ。新しい建物でした。
アリタ川を越えて、約1000年前に砦(ジェチネツ)だった部分に入ります。因みに川は藻だらけでした。
川を渡ると古代の公の像。ウラジーミル・グレボヴィチ公だそうです。名前を聞いてもぴんとこない。どんな人だったか思い出せぬ。
川を渡ってから、どちらかというと右に向かっていきます。このあたりがかつて砦があった地区なのです。当時はペレヤスラヴリ・ルースキーと呼ばれていました(写真の聖堂は後代のものです)。
そして聖堂脇を左に進んでいくとまずはこの公園のような空間。そばに二つの石碑がたっています(これでわかる人は通ですよ)。
もう一つあります。
そうなのです。ここはかつての砦の跡でもあるのですが、それが1239年にモンゴル帝国に滅ぼされた後、まだ多少集落的機能が残っていたのでしょう。ここでウクライナ史上の英雄ボフダン・フメルヌィツィキーが1654年にカザーク(コサック)のラーダ(会議)を開き、ロシアのツァーリ、アレクセイ帝と対ポーランド戦争で同盟を結ぶのです。このことの歴史的評価は非常に難しく、ウクライナ人の中には彼を裏切り者とみる者もいます。
ただ、それがこんな空き地で決まったとは思わなかった・・・。
それはさておき、もう一つのお宝がこの先にあるので、そちらに向かいます。どんどん進んでいきます。見えてきました。
当時、ペレヤスラヴリ・ルースキーと呼ばれていたこの町の、その中心にあたる砦の、更に一番南に当たる部分がまさに砦のコアの部分だったわけです。モンゴルにより破壊され、当時のものは遺構しか残っていませんが、こちらのミハイル教会がかつての主教館があった場所です。
周りに遺構が残っています。
説明書きによると、諸公や主教たちの墓所だったようです。
元は一回り大きかったようです。
そして、教会自体は普通の建物ですが、屋根の上にかつてのものをそのまま復元したものを載せてあります。
これ、下からだと見えないのですよ。距離を取らないと。
修道院の裏は砦を支えるもう一つの川トルビジ(トルベジ)がある。こちらは藻がたまっているなんてことはない。
ミハイル教会の中にはの石碑についてもう一言。これ、原初年代記の編集を行ったシリヴェストルが1123年までここにいたとの碑文。個人的にはちょっと感銘を受けました。
その後もいろいろ廻ったのですが、これ以上は秘密です。ただ、日曜に行って正解でした。
アフトスタンツィヤに戻り、目の前に止まっていたバスに空き席があったので、行きと同じく35Gでキエフに帰還しました。メトロのボルィスピリ駅を経由したのでそちらで下車しました。(2016.6.5)
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